(六)儒学の中島聖堂での懇談。甚三郎は儒学の知見を披露し参加者を驚かす!
昼食を済ませて、再び中島聖堂に向かった。中島聖堂は、銭屋川に三十間(約五十メートル)は面していた。いよいよ長崎の儒学の殿堂に入るのかと思うと、胸が高まった。
南側の入り口の大門を入った。次の櫺星門(れいせいもん)を通り抜けると大学門(杏暖門 )が、唐風の屋根を従えた門構えで迎えていた。唐風は、左右の均衡がとれ少し軒先が天に向かって曲がっているのが特徴であった。中央には朱塗りの門扉が、眩しいほどに鮮やかだった。大学門を入ると正面には、大成殿(孔子廟)が控えていた。

中門を入ると、元仲祭酒(もとなかさいしゅ)と子弟や聖堂で学んだ者達が、待っていた。
聖堂内の明倫堂に移動して、懇談会が持たれた。中島聖堂の書記役を勤めていた田辺八右衛門茂啓が、司会を進めた。
会の始めに、子静が私のことを淡淵門下の高弟と紹介してくれた。
懇話会の席上、参加者から、
「甚三郎殿の儒学の研鑽について、教えていただければ幸いですが・・」
との質問が出された。某の力量を測っているのだなと察したが、顔色一つ変えずに淡々とした表情で、
「十歳から名古屋の加藤于周医師のもとで学び、十三歳までに儒教の経典、史書や日本の歴書は、ほとんど読む機会を得ました。名古屋の高名な学者を訪ねて独学しておりました」
と答えたので一同から「おー」という感嘆の声が漏れた。
「十六歳から二年間京都で独学し、現在、中西淡淵先生の元で学んでおります。経学、諸子学、詩はすべて終了しました」
続けて、
「現在は、経学、六経の中で詩経の研究をしております」
司会を勤めていた八右衛門も感心したように、
「詩経の研究は、どのように進めておられるのですか」
と聞いてきた。専門的なことになるとは思ったが、長崎遊学の目的の一つでもあるので、話すことにした。
「現在、伝えられているのは、毛亮・毛萇(もうちょう)の伝えた毛詩と呼ばれるものなので、できるだけ孔子が編纂した原典に当たってみたいと思っております。それは、・・」
二十歳前の若者とは思えないほどの儒学の研鑽と自分たちとの水準の違いに、言葉を失ったように場は静まりかえった。しばらくして、さすが名古屋の淡淵先生はよい高弟をお持ちじゃという囁(ささや)きが広がった。
私も確認しておきたいことがあったので、
「それでは、私の方から、一つお尋ねしてもよいかな」
と出来る限り親しそうな表情をしながら聞いた。
「皆の衆は、儒学は、誰のために何のために学んでおられますか」
学生達は、余りにも当たり前な質問なので少し憑依抜けしたように、一番年かさの者が答えた。
「それは、藩つまりお国のためと己の修養のためでございます」
「まことに正しい答えと承ります」
私は、続けて、
「では、藩のためとは、どういうことか、をさらに考えることが重要だと思います」
その学生も続けて、
「それは主君のためでございます」
「それもまことに正しい答えと承ります。では、主君の為とは、どういうことか」
それで、重ねて問うてみた。
場からは、すぐには声が出なくなったので、続けて、
「主君が主君として、あがめられるのは、その国に民百姓がいるからです。従って、まずは民百姓のためという心がけが必要だ、と思っております。私は、主君が民百姓の父母のようになっていただくことを願っております。そして、学んだことが民百姓のために実際の役に立つことが、肝要です。儒学もそのために学んでおります」
これが、私の対話の仕方の一つだった。難しい言葉は使わず、出来る限り分かりやすく話すように心がけていた。質問は、何の為に、誰の為に、何故学ぶのですか、の三つを重視した。

懇談が終わると、横に控えていた元仲祭酒から、
「さすが、淡淵先生の高弟じゃ。甚三郎殿。まことに孔子の教えの肝心なところを端的に説明していただいた。聖堂での教えと誠に相通じるところがある」
と評価を受けて、淡淵の教えと共通点があると言われたことが嬉しかった。
私は、祭酒の方を向かい、心からの敬意を表す様にゆっくりと頭を下げた。元仲祭酒が自分と近い考えの人であることを知って、大いに心強く思った。
懇談のあと祭酒と八右衛門が、聖堂の中を案内してくれた。八右衛門は、六十に手の届く年齢ではあったが、かくしゃくとした態度できびきびと話した。また、頭もすこぶる達者であり、意欲も十分であった。この十年ほどは、長崎開港以来の歴史の編纂に取り掛かっているとのことだった。完成には、まだ十年は掛かりそうだと言った。
大成殿の中には、孔子像が正面壇上に安置されていた。清人の貢納像と言われたものだった。
八右衛門は、案内をしながら、中島聖堂の果たしている役割も紹介した。
「この聖堂で、唐船に対する信牌(貿易許可書)を発行しています」
私は、そうした業務は、奉行所や唐通事がされているのでは、と聞いた。
「ここでしか行うことはできません。もちろん、日ごろから長崎奉行所や通事の方々とも、密接に連絡を取り合っていますが。手前みそではありますが、ここは学問と唐貿易の中心地でもあるのです」
続けて、
「こうした縁もあり、唐船主からも寄進寄付を受けております。聖堂の運営には、助かっており有難いことです」
謙虚な人柄そのままの話しぶりであった。
「甚三郎殿は、中国語を学ぶことが目的の一つと言われていましたね。それでは、ぜひ明倫堂で開かれている唐音勤学会にご参加下さい。大、小通事を先生として稽古通事たちに南京語、福州語、漳州(しょうしゅう)語などの地域別中国語を講習しております」
八右衛門からのお誘いであった。
生の中国語を学ぶ機会がこんなに早く実現することに、驚いたり感謝したりしながら、
「ぜひ参加させてください」
と言って、その場で頼み込んだ。八右衛門は、
「この聖堂では唐人が事務取扱のために働いております。その中で日本語にも堪能なものを紹介しましょう。その者を相手に唐音を稽古されるのもよいと存じます」
一人の唐人を紹介してくれた。髪はすでに白髪であったから、老境に近い年齢のようであった。
「沈草亭(ちんそうてい)と言います。書も少々嗜みます」
と自己紹介した。沈草亭は、あざなを魯石といい、風光で著名な蘇州の出であった。
故郷の話題になったので、私も知多の魚は美味しいと言った。沈も蘇州の名物料理の膾(なます)が懐かしいと返してきた。
まだ慣れない唐音であったが、名古屋で多少は経験していたので、身振り手振りを交えて唐音で対応した。また書も指導していただくように唐音で頼み込んだ。こうした程度の会話であれば通じるようであった。
いつの間にか昼七つ(午後四時過ぎ)になった。
私達は、突然の訪問の非礼を詫びながら、望外の知遇を得たことにお礼を言って、中島聖堂を後にすることにした。
中島聖堂からは、長崎港から西につながる五島灘の海面に、夕日が明るい大きな帯のようになり、照らしているのが見えた。空には、橙色の夕焼け雲がきれいな塊りとなり、夕日の光を透して浮かんでいた。