今週のお題「体力」
今、グランパの人生、半世紀プラス半半世紀を思い起こして、
体力のピークは何時だったのだろうか?!
体力を辞書で調べると
身体的・精神的に活動するための力
とある。
従って、何を活動するための体力かによって、ピークも変わってくるように思える。
グランパは、これを、寿命になぞらえ、
活動的体力
健康的体力
生物的体力
に分けて考えてみることにした。
活動的体力は、
いわば仕事現役時代のことであり、
ばりばりと仕事や社会的活動、家庭の切り盛りや子育てなどに邁進している時期を
活動寿命とすれば、
それらをこなしている体力と言えそうだ。
健康的体力は、
イメージ的には、仕事現役時代を卒業し、活動的体力の行使から、少し引いて、第一線を退き、主に自分自身の健康維持を行っている時期を健康寿命とすれば、
こうした活動を支える体力ということになる。
生物的体力は、
人間の寿命から健康寿命を引いた残りの時期を生物的寿命とすれば、
それを支える体力が相当するように思う。
グランパには、これは、もう少し先の話にしておきたい(笑い)。
このグランパの勝手な体力の定義に従えば、
現在は、健康的体力を使っている最中ということになる。
これを身体的・精神的に活動するための力として考えた場合、
さてピークは何時なのだろうか?
身体的には、活動的体力時の半分にも届かないような実感がある。
しかし、精神的には、若い時よりは、よりストレス耐久性が増したようにも思うし(仕事現役時代のような理不尽な事例に遭遇することが少なくなったということはあるが)、前頭葉の記憶力や計算力が衰えた分、より慎重な思索や判断ができるようになったようにも思う。精神的体力は、身体的衰えよりも、より「体力」の維持が出来ているようにも思う。むしろ向上している側面もあると実感している。
仕事現役時代までを活動的体力の行使時期とした時、その以降を健康的体力の行使時期とすれば、身体的・精神的を総合的に考えた場合、健康的体力のピークは、今かもしれないし、もう少し先かもしれない。
少なくとも精神的体力は、活動的体力のように衰えていっているという実感はまだない。
グランパ的定義で健康的体力時代に入っていると思われる高齢になっても、優れた業績を上げた人物は古今東西数知れない。
例えば、
「貝原益軒」83歳で、養生訓を執筆。
「渋沢栄一」80代半ばで「日本経済史」を執筆。
「グランマ・モーゼス」80歳から次々新作発表。
などなど。
世界的に稀有な例をあげてもグランパの明日の生き方には関係はないが、
同じ人間として(笑い)、
「世の中には、凄い人がいるものだな」
という刺激の種の一つにはなる。
で、今、ひそかに狙っているのが、貝原益軒の83歳での執筆という例だ。
もちろん、世に知られることはあり得ないが、
閻魔大王の前に出た時、
「私のはてなブログ・選りすぐり」(笑い)
というワープロ打ちの自宅印刷の冊子を差し出すくらいは許されるだろう。
悪行を重ねた証拠になるのか、善行を施したとして情状酌量の対象になるのかは大王の御心次第ではあるが。
ちょっと話が脱線したが、ようするに、グランパとしては、健康的体力を維持することは、今のところ出来ているようだということ。
これは、グランパとしての当面の一番の課題である「ボケ防止」について、進行を遅らせている程度の体力は温存出来ているだろうという喜ばしい話で締めくくりたい。
COPILTより

貝原益軒
歴史
貝原益軒(1630年12月17日–1714年10月5日)は江戸時代前期から中期にかけて活躍した本草学者・儒学者・医師である。福岡藩黒田家に仕える医家の五男として生まれ、幼少期に父・貝原寛に本草学と儒学の基礎を学んだのち、京都で木下順庵や山崎闇斎らに朱子学・朱子経学を師事した。
35歳で帰郷後は藩医としての職務を全うしつつ、隠居後の55歳からは本草学や経済学、教育学、地理学、歴史学など幅広い分野で執筆活動を開始。晩年まで50年にわたり多数の著述を残し、1712年(正徳2年)には83歳で代表作『養生訓』を上梓した。
主な業績
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『養生訓』 1712年に83歳で刊行。270余条におよぶ長寿・健康論で、「食事は腹八分」「眠りは長くとも分けて取れ」などの実践的心得を示し、当時の大ベストセラーとなった。
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地誌編纂 1688年(元禄元年)に『筑前国続風土記』を編集。地域の歴史・風土・産物を詳細に記録し、後世の地誌研究の先駆けとなった。
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本草学 1709年(宝永6年)に『大和本草』を刊行。中国本草学を和名に翻訳し加筆、植物の形状や生薬としての利用法をまとめた。日本固有の薬草研究を体系化した業績として評価される。
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教育・語学 幼児から高齢者までを対象にした『和俗童子訓』『大和本草』の序文などを通じて、易しい語り口で儒教・朱子学の教えを普及させた。
後世への影響
『養生訓』は江戸時代以降、現代に至るまで注目を集め続け、現代語訳や解説書が数多く出版されている。日本各地の公立図書館や電子図書館でデジタル化資料が公開され、健康長寿論の古典として再評価されている。
また、『大和本草』をはじめとする本草学書は植物分類や薬用植物研究の基礎資料として引用され続け、近代植物学や薬学研究にも影響を与えた。地域風土記の編纂手法は後世の地誌研究・郷土史研究のモデルとなり、地方文化の記録・保存に貢献している。
さらに、『和俗童子訓』など教育書は庶民の教養書として広く読まれ、江戸から明治期にかけての子女教育に影響を及ぼした。貝原の「実証主義的」な姿勢は学術研究の方法論としても評価され、漢方医学のみならず、幅広い学問分野にその名を残している
渋沢栄一
歴史
渋沢栄一は天保11年2月13日(西暦1840年3月16日)、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれた。幼少期から学問を好み、幕末には幕府の欧州使節派遣団に随行してパリへ渡るなど異文化を体験した。明治維新後には大蔵省に迎えられるが、1873年に退官し、民間経済の発展を志して企業経営の道へ進んだ。
主な業績
これらの取り組みを通じて、日本における近代資本主義と社会福祉の基礎を築いた。
後世への影響
渋沢栄一の「道徳経済合一説」は現代の企業の社会的責任(CSR)やサステナビリティ経営の理念的先駆けとされる。また、2024年度(令和6年度)発行の新一万円札の肖像に採用され、日本全国で「日本資本主義の父」として広く認知されている。さらに、渋沢栄一記念財団による「渋沢栄一賞」の設立などを通じて、産業界や教育・福祉分野におけるリーダーの育成にも影響を与え続けている
アンナ・メアリー・ロバートソン “グランマ・モーゼス”(1860–1961)
生涯
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1860年9月7日、アメリカ・ニューヨーク州グリニッジの農家で10人兄弟の三番目として生まれる。幼少期から家庭や農作業を手伝い、絵画とは無縁の生活を送った。
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68歳で夫に先立たれた後、孫の勧めで絵筆を取り始める。78歳で油彩画を本格的に制作し、80歳で初の個展をニューヨークで開催した。
主な業績
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農村の日常風景や収穫祭、クリスマスなどの祝祭を題材とした素朴なナイーブ・アートを展開。代表作に「Sugaring Off(シュガー採取の頃)」「The Old Checkered House」「The Farm」などがある。
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80歳以降も精力的に描き続け、生涯で約1,600点の作品を残した。
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刺繍絵画や版画にも挑戦し、表現の幅を広げた。
後世への影響
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1960年9月7日、100歳の誕生日にニューヨーク州で「グランマ・モーゼスの日」が制定され、その直後も各地の主要美術館で回顧展が開催された。
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2021年には世田谷美術館で回顧展「グランマ・モーゼス展―素敵な100年人生―」が開催され、日本でのナイーブ・アート人気を再燃させた。
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伝記や作品集が多数出版され、生涯と創作は「何歳からでも挑戦できる」象徴として世界中に希望を与え続けている。


